なぜ看護師は忙しさを誇りにしてしまうのか

― 自己犠牲が善とされる構造 ―

「今日も本当に忙しかった」

そう口にするとき、どこか誇らしさが混じっていることに気づくことがあります。

もちろん、充実した仕事を時間内にやり切れたのなら、それは健全な達成感でしょう。

けれど実際には、時間外労働をし、プライベートの時間を削り、心身をすり減らしていることも少なくない。

それでも私たちは、忙しさをどこかで“良いこと”のように扱ってしまう。

なぜだろう、と考えるようになりました。

そこには、自己犠牲を善とする構造があるのかもしれません。

患者優先という強い倫理。
慢性化した人手不足。
耐える人が評価される文化。
“楽をする”ことへの罪悪感。

どれも、個人の問題というより、空気のように存在しているものです。

私も以前は、その空気の中にいました。

疑うことなく、「忙しい=頑張っている」と思っていた。

けれど、海外で生活したときに、小さな違和感を覚えました。

バスの中で、席が空いているのに座らない人がいる日本の風景。
優先席だから、誰かが来たら気まずいから。
理由はきっといくつもあるでしょう。

でも海外では、空いている席に座らない人をほとんど見ませんでした。

優先が必要な人が来れば、自然に譲る。
あるいは「座りたい」と軽く声をかける。
気づかなければ、呼びかければいい。

そこには、善か悪かという緊張感はあまりありませんでした。

まず自分が座る。
でも、相手も尊重する。

自分を大切にすることが前提にあって、その上に思いやりがあるように感じたのです。

人を大切にするためには、まず自分を大切にできていなければ続かない。

自己犠牲は、美しく見える瞬間があっても、いずれどこかで破綻します。

忙しさは、本当に誇るべきものなのでしょうか。

もしそれが構造の中で生まれているのだとしたら、
私たちは何を選びなおせるのか。

環境に流されず、少し立ち止まって見つめなおすことから始めてもいいのかもしれません。

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